古野 慧 ロゴ

スキークロス日本代表

Satoshi Furuno

Age

STORY

このページでは、「古野慧」のこれまでを事細かく紹介していきます!スキーとBMXという今の私を形成する大きなきっかけとなった7歳の頃からそれぞれの年代で取り組んできたこと、起きてた様々な事象を紹介します。

2006年

7歳

アルペンスキー&BMX開始

新潟県長岡市出身の私は、小学校に入る前から体を動かすことが大好きな子どもだったようです。3つ上の兄と色んな遊びをしていました。その中で兄がハマったのは自転車とスキーだったみたいです。もともとスキーは親がファミリースキーに連れて行ってくれていて、その流れで「クラブチームに入ってみるか?」という親の提案から長岡のクラブチームに入ったみたいです。一方BMXに関しては、兄が自転車に乗るのが好きで、BMXだけでなく、MTBも乗ってみたりしましたが、兄がハマったのはBMXだったみたいで、私は完全に兄の影響で一緒について行ったという感じです。
そこからはもう毎日ひたすら家の前で乗りまくる日々でした。家の前の空き地にコースを作って乗ったり、街の公園を走ったりとにかく走り回ってました。というか走らされていたという方が正しいですね笑
冬になれば庭でスキーをするような生活です。裏山まで板を持って行ってそこで滑ったり平日の夜に親にナイタースキーに連れて行ってもらったりもしました。とにかく夏も冬も動きまくる生活をしてました。

2009年

10歳

スキークロスとの出会い

スキークロスとの出会いは、加入していたクラブチームの方から草大会の紹介を受けたことがきっかけでした。もともとアルペンスキーとBMXをやっていた私たち兄弟にとって、スキークロスはまさにその両方の要素が詰まったとても魅力的なスポーツに感じて、その草大会に出場しました。やってみるとやはりとても楽しくすぐに競技に魅了されました。スキークロスは2010年のバンクーバーオリンピックから正式種目となり、そのオリンピックの映像もひたすら繰り返しみていました。その頃からいつかオリンピックに出たいなという漠然とした夢を持つようになりました。ただ、日本にはスキークロスをずっとやれる環境はないので、基本はアルペンスキーとBMXを行うという生活でした。

2011年

12歳

BMX世界選手権7位

小学1年から始めたBMXは小学6年の時には国内の同年代ではかなり強くなっていて、4年生〜6年生までは3年連続で日本シリーズの年間チャンピオンになりました。この頃はスキーよりもBMXでオリンピックに出たいなと思っていました。そして、この年に行われた世界選手権にて年代別で7位入賞することができました。今思えばここがBMXのピークでしたね笑

2012年

13歳

上越市へ引っ越し & MRSC加入

2012年、中学生になるタイミングで新潟県長岡市から上越市へ家族で引っ越しをしました。私が中学に上がるタイミング、兄は高校に上がるタイミングでした。理由としては、スキーとBMXをする環境が上越が良かったからという事です。BMXのコースは上越市の金谷山にあり、長岡にいた頃は毎週土日は長岡から通うという生活でした。それが上越に引っ越し放課後は毎日コースに通えるという生活になりました。そして、スキーの方はというと、妙高にあるMRSCというチームに入ることになりました。今でもお世話になってるチームでここでスキー人生は大きく変わっていきましたね。夏休み期間はMRSCの練習にも参加するため、朝6時に上越の自宅出発し、妙高まで約30kmをロードで2時間かけて通い、9時からトレーニングをして、お昼を食べて30kmの道のりを帰り、そして夕方は金谷山でBMXの練習に行くというスーパーハードな日々を過ごしていました。今考えたらやばいですね笑。とにかく動きまくってた時期でしたね。ただ、残念なことに、当時の私はかなり小さく、小学生の頃は勝てていたBMXもスキーも周りの子たちが成長するのに全くパワー負けして全然勝てなくなっていきました。中学の3年間は勝てずかなり苦しい時期でした。

2016年

17歳

高校入学 & 世界ジュニアでの挫折

高校生になり、進学先は関根学園でした。県内では一番のスキー強豪校で顧問の横山先生には大変良くしていただきスキークロスも、アルペンも、BMXも認めてもらいました。この頃は三刀流でしたね。スキークロスはFIS登録(競技者登録)が16歳からできるので、この年から本格的にスキークロスに取り組むようになりました。海外のレースにも参戦し、3月に行われた世界ジュニア選手権にも出場しました。ここで大きな挫折を味わうことになりました。この大会は16歳~21歳のジュニアの選手が出る大会です。それなりにいけるかと思って挑んだ大会で、全く歯が立たず予選敗退してしまいました。当時の同世代の選手に5秒以上つけられての大敗を喫し、更に悔しかったことは、その大会で2位だった選手が同い年の選手だったということです。ここまで差があるのかと大きな挫折を味わいました。そこからまずは圧倒的に遅すぎたスタートセクションを改善しないといけないと思い、兄と共にスタートセクションを作りひたすらスタートセクションの練習をするようになりました。これが今でも生きているとても大きな経験、スキルになっています。

2017年

18歳

インターハイ入賞 & 慶應義塾大学合格

高校のスキー部とてアルペンもしっかり取り組んでいました。高校2年の時には県大会でSL、GSで2冠インターハイでは両種目で入賞することができました。アルペンスキー界は高校の2年までのインターハイの結果次第で大学進学がほぼ決まる世界です。ここで良い成績を出している人はいろんな大学から声がかかって進学できるというスタイルで、私の場合は、卒業後はスキークロスをしたいなと思っていたので、最初は大学に行く気はなかったのですが、インターハイの結果で慶應スキー部の土居監督からお声がけを頂いて、まさか自分が慶應に行ける可能性があるんだということを初めて知りました。そしてそこから色々とお話を聞き、慶應は推薦がなく受かる保証はないということも言われ、それでも受験する価値があると、相談した多くの人に言われ高校3年の春から受験勉強を始めました。そこからは自分でも自信をもって言えるくらいかなり頑張りました。そして慶應スキー部の現役、OBOGの皆さんのおかげでなんとか、法学部政治学科に合格することができました。インターハイ入賞から慶應合格まですごい運を引き寄せられたなって思いますね。

2018年

19歳

ACL断裂

高校3年の冬、スキークロスの方でヨーロッパカップに参戦中に転倒し、初めての大きな怪我となる右前十字靭帯損傷という怪我をしてしまいました。そのシーズンはもちろんその時点で終了。アルペンの大会にも出られず、インターハイと国体は上位を目指していたのでそこはかなり残念でしたね。怪我をしてすぐに筑波の病院の院長先生を紹介していただき、帰国後すぐに再建手術をしてもらいました。そしてリハビリはjissに宿泊しながら行い、トータル9ヶ月のリハビリ期間でしたね。初めての大きな怪我で何をしたら良いかと悩んだりもしましたが、この時期の経験は非常に大きな財産となりました。jissにいた他競技の選手たちとの交流はすごく大きな刺激になりましたし、今でも交流もあります。それからこの時期に自分は何をすべきなのか色々考えてみた時に、やはり海外選手との圧倒的なフィジカルの差があると分析していきわかりました。そこで本格的に肉体改造に取り組み、そこから大きくステップアップしていくことになります。この怪我を機にスキークロス選手として一歩前に進んだ感じがしています。

2019年

20歳

ユニバーシアード7位入賞

初めての大きな怪我から復帰し大学2年生となったこのシーズンは、少しずつ成長を感じることのできたシーズンとなりました。リハビリの成果も出て、怪我前よりも速くなったことを実感することができたシーズンでした。3月には大学生のオリンピックと呼ばれるユニバーシアード大会に出場し7位入賞することができました。世界大会での入賞経験は初めてで、またこのような大きなタイトルでの入賞は一つ大きな自信となるレースでした。

2020年

21歳

World Cup初出場 & 2度目のACL断裂

2020年シーズンは個人的に大きく飛躍したシーズンでした。1回目のACL断裂後フィジカル強化をしてきた成果が少しずつ表れてきたことを体感することができました。また、初めての世界ジュニアでの挫折を経てスタートセクションの練習を継続して行ってきたこともようやく成果が現れ始め、スタートはかなり得意なパートとなりました。そして1月に行われたノースアメリカンカップでは、スイスのトップチームがいる中で5位入賞を果たし、その成績を評価され翌週のWorld Cupに出場することになりました。WCは事前の公式トレーニングでもタイムを測るので、そこではなんとスタートセクションに関しては、9番タイムを取ることができました。初の世界大会で挫折してからついにスタートに関しては世界のトップ10に入れる実力がついたのだと本当に嬉しく、自信につながるものでした。しかし、むかえた予選で転倒し、今度は反対足である左足の前十字靭帯損傷の怪我を負ってしまいました。これからというときでしたが、この時は意外とそこまで落ち込むことはなかったです。というのも、確実に自分の成長を感じられており、自分が進んできた道は間違っていなかったんだと確信することができたからです。あとは、もうやるだけだと思い、2度目のリハビリもしっかり行い更にフィジカル強化も行っていました。

2022年

23歳

北京オリンピック出場

2022年2月18日。この日私は幼い頃からの夢を一つ叶える事ができました。ここに来るまで本当に色んな人に支えてもらいました。2度目の怪我明けから振り返ると2021年シーズンからオリンピックの選考が始まり、開幕戦であるアローザでのワールドカップからいきなり16位となる事が出来ました。これで一気に自信もついて着々とポイントを積み上げる事ができました。怪我直後に感じていた、「やってきた事は間違っていない、このまま進めば確実に強くなれる」という想いは結果として最高の形で表れてくれました。そして2022年1月にオリンピックの出場権を獲得する事ができ、無事オリンピックに出場する事ができました。本当に感慨深いです。この大会を夢見てきて実現出来たのはとても嬉しい事でした。しかし、オリンピックの結果はまさかの開始3秒で転倒するというあまりにも呆気ない形で終わってしまいました。

まさに一瞬で終わってしまった初の舞台は、あまりにも呆気なく、悔 しすぎる結果となりました。しかしながら、このわずか一瞬でも、夢の 舞台に立てた事を誇りに思いますし、この舞台に立つために本当に多く の方に支えられてきたんだなと大会期間中改めて実感しました。 多くの応援メッセージを頂き、パワーを貰いましたし、なにより“感動 した”と言ってもらえた事は本当にスキークロスをやっていて、オリンピックに出れて一番良かったなと思えた出来事でした。 自分の頑張りで、滑りで、感動を与えられるという事は本当に価値のある事だと再認識し、今後はより多くの 人に感動与えられる選手に成長しなければならないと強く感じたオリンピックとなりました。

2023年

24歳

世界選手権9位

オリンピックでの悔しさをなんとか消化して、次のオリンピックを目指して活動を再開した2023年、この年も自分の中で大きな成長をする事が出来たシーズンとなりました。オリンピック後マテリアルをエランに変更し、大きな挑戦でした。最初の数戦は結果が出ず苦戦しましたが、年明け以降のワールドカップにおいて予選で初めて8位と1桁台に入る事ができました。ここをきっかけに苦手だった予選を攻略する事ができ、2月の世界世界選手権では予選でまさかの1位通過する事ができました。本当に自分でもびっくりしましたが、本当にようやくここまで来る事ができたかという思いと、ゴールした時の高揚感は最高でした。決勝トーナメントでは2回戦で敗退となりましたが、最終結果9位と、初めてトップ10入り出来た事はまた一つ成長出来たなと感じる大会となりました。
いよいよ今度はワールドカップでの入賞、表彰台を目指して活動していきます。

普及 & 社会貢献

オリンピック出場を経て、アスリートの価値は「多くの人に感動してもらう事」だと再認識し、そのためには競技外の活動を積極的に行って行かなければいけないと感じ、今日までの 2 年間で、競技の普及活動や社会貢献活動に積極的に取り組みました。競技者 としてだけでなく、社会に対しても貢献できることを実行しています。具体的には、母校での講演会を行った り、若手選手へのトレーニング指導を行ったり、スキークロスの練習施設を整備したりと、多岐にわたる活動 に取り組んでいます。つい先日は、表参道にてスキークロス普及を目的としたイベントを開催しました。このような活動がスキークロスの未来を作ると信じて今後も継続していきたいと考えています。
さらに、私自身の後援会も作っていただき、会員の皆様からのご支援をもとにより充実した活動を行えるよ うになりました。2026 年のミラノ五輪では、皆さんの応援と共に夢を追求し、その姿を多くの人々に感動と して届けたいと考えています。私と共に戦ってくださる方がいらっしゃいましたら後援会へご参加頂けますと嬉しいです。

2025年

26歳

左膝半月板&軟骨損傷 / 恥骨骨折

左膝半月板&軟骨損傷 / 恥骨骨折
2023年に世界選手権で9位を取り、いよいよワールドカップでの入賞、表彰台を目指していく、というところでした。しかし、このオリンピックイヤーに向けた2024-25シーズンは、本当に苦しいシーズンとなりました。
オリンピックの選考は、オリンピック前年の2024-25シーズンから始まります。全18戦、そのすべてのポイントが加算されて出場権が決まるため、1戦も落とせないシーズンでした。ところが、その第8戦で左膝の半月板と軟骨を損傷。ドクターやチームスタッフと話し合い、一度帰国し、手術はせずリハビリをしてシーズン後半戦に挑むことになりました。約1ヶ月の試合をスキップして、第14戦で復帰しました。しかし、膝の痛みを抱えたまま無理をして滑った結果、今度は恥骨を骨折してしまい、そこでシーズン終了。結局、全18戦のうち出られたのは9戦だけと、半分しか出場できませんでした。
そしてその後、損傷した左膝の手術を受けることになり、そこからオリンピックまではひたすらリハビリの日々でした。
この時期は本当に苦しかったですね。身体の痛みももちろんですが、不安も大きかったです。出場できない間も選考は進んでいくので、18戦全部のポイントで争う中、出られないレースの分だけランキングがどんどん下がっていく。その恐怖と焦り、そして手術後にちゃんと元通り戻れるのかという不安が続く日々でした。それでも、やるしかないと、自分を鼓舞しながらリハビリとトレーニングに打ち込みました。

2026年

27歳

ミラノ・コルティナオリンピック 4位入賞

春から夏、秋を経て冬のシーズンに入ってもリハビリを継続しており、12月に開幕する2025-2026シーズン開幕戦まで痛みは残っていました。
本来であれば、オリンピックの出場権は獲得し、オリンピックに向けて調整をするという形を理想としていたのですが、前年18戦中、9戦しか出場できなかったため、そもそもオリンピックの出場権すら獲得できていない状況で、尚且つ痛みも未だに消えず、色んな不安を抱えての開幕戦となりました。
それでも、なんとかポイントを獲得していき、ミラノ・コルティナオリンピックの出場権を掴み取ることができました。

前回の北京は「出場すること」が目標でしたが、今回は「メダルを獲る」その目標だけを見据えてやってきた4年間でした。とはいえ、正直この4年間は全く理想通りにはいかず、怪我からの復帰後もなかなか思うような結果が出せなくて、本当に苦しい状況が続いていました。それでも、自分の中では確実に成長を感じていました。順位や数字には表れていなくても、積み上げてきたものは確かにある。あとはそれをあの舞台で出し切るだけだと信じて、2度目のオリンピックに臨みました。

そして迎えた2026年2月21日。この日、私はスキークロスの日本男子として史上初めて、決勝(ビッグファイナル)の舞台に立つことができました。決勝は、地元イタリア勢2人と、前回北京の銀メダリストと並んだ4人での戦いでした。スタートで一歩出遅れてしまいましたが、最後まで諦めずに追い続けました。全員が体力の限界の中、終盤で必死に差を詰めて…結果は、2位・3位の選手とわずか0秒08差の4位。メダルまであと数十センチというところで、届きませんでした。
レース後は涙が止まりませんでしたね。メダルに手が届くところまで初めて来られたのに、そこを逃してしまって、悔しさでいっぱいでした。ただ、ここまで来られたのは本当に多くの方のおかげです。あれだけの怪我をして、手術を乗り越えて臨んだ大会でしたが、幸い、支えてくださった皆さんのおかげで当日は痛みが全くありませんでした。コースも自分にとって得意なコースで、100%の力を出し切ることができました。自分でも思っていた以上にうまく滑れて、これまで培ってきたもの、積み上げてきたものを、あの舞台で爆発させることができたと思っています。
前回の北京が開始3秒で終わってしまったことを考えると、大きく成長できた4年間でした。日本勢過去最高位、そして初入賞という結果で、日本のスキークロス界に新しい歴史を刻めたことは本当に光栄です。そして何より、これだけ多くの方にスキークロスという競技を知ってもらえて、たくさんの方に「感動した」と言っていただけたことが、一番嬉しかったですね。
オリンピックの悔しさを抱えたまま、シーズンはまだ続いていました。その悔しさをぶつけるように、五輪後のワールドカップではセルビアのコパオニク大会で8位、そして今季最終戦のスウェーデン・イエリバレ大会では自己最高の7位でシーズンを締めくくることができました。オリンピックで掴んだ手応えは、確かなものだったと実感しています。
次の目標は、4年後のオリンピックでのメダル獲得です。今回味わった「あと一歩」の悔しさを、必ず力に変えていきます。世界の頂点を目指して、これからも挑戦を続けていきますので、ぜひ、私と一緒に夢を掴みに行きましょう。

TOPページへ戻る